「何が嫌いか」で自分を語ってほしい

「何が好きか」の無意味さ

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」というある漫画のセリフがあるが、自分は全く逆の考えで、私が相手の内面を理解したい時は「何が嫌いか」を引き出すようにしている。

自分が好きなもののに対する人間の視点というのはアテにならない。多くの場合は盲目的で冷静さに欠ける。特に、芸人やタレント、俳優やアイドル、声優、YouTuberやVTuberインフルエンサーなど、人間を対象とした場合のそれは酷いものだ。人間を前面に売り物にしたエンターテインメントは、演者もファンも摩耗させる。演者がファンから搾取しているようで、演者自身もファンによって消費されていく。すっかりすり減ったファンがひねり出した褒め言葉は、その人の内面ではなく、「いかに演者の内面をよく見せるか」という外面たっぷりの言葉になってしまう。

要するに、「何が好きか」を話す時、人間は自分が好きなものをよく見せようと外面造りに必死になってしまうのだ。

脱線: 人間性を販売するエンターテインメント

少し話を脱線させるが、自分がなぜ「人間性を販売するエンターテインメント」をここまで嫌っているのか、自分に対する自分自身の理解を示しておく。

自分は特にコントが好きで、芸人が劇場で披露したネタを自分自身で公式YouTubeチャンネルにアップロードする時代において、私はその恩恵をふんだんに享受している。しかし、近年はメディアでもSNSでも、芸の裏にある芸人の人間性にスポットライトを当てるような演出が多い。

演者がどんなにエゴサしようが、それが芸に対する投稿であればポジティブだろうがネガティブだろうが受け取りようがあるかもしれない。だが、演者自身の人間性やルックス、生い立ちや家族に対する言葉であれば、ポジティブだろうがネガティブだろうが演者自身の生き方に強く干渉することとなってしまう。それはファンにも近いことが言えて、自分が好きな人間そのものに対する発言には賛美だろうが攻撃だろうが敏感になるものである。人間の「好き」という感情をハックし、提供者も消費者もSNS過敏症にするエンターテインメントは、本当にここまで広く社会に浸透するべきだっただろうか。

「何が嫌いか」もしくは「何を不条理と思うか」

さて、話を戻す。これも個人的な意見ではあるが、その人の内面というのは「何が好きか」ではなく「何が嫌いか」「何が憎いか」に現れると思う。あるソフトウェアエンジニアが 怒り駆動開発 という言葉を提唱していたが、「何を不条理とみなすのか」「その不条理とどうやって折り合いをつけるか」はその人の信条が反映される。例えば、私は「人間性を販売するエンターテインメント」を不条理とみなすし、コントは見てもその演者の人間性を理解することから逃避することでごまかしている。不条理に直面した時、立ち向かうのか、やり過ごすのか、うまくいなすのか。「どれだけ外面造りがうまいか」よりも、私はそういう内面の方に興味がある。