映画「変な家」 雨男の絶対に笑ってはいけない因習村

ドラ泣きさせて頂きました。感動をありがとう。

以下に、2024年に日本で公開された映画「変な家」のネタバレを記載する。
映画をご覧になっていない方は閲覧を控えて頂くか、十分に注意して先に進んでほしい。

はじめに

劇場版「変な家」は、ウェブライターの雨穴による作品「変な家」を原作にした映画である。

最近の私はSNSやテレビをあまり観なくなってしまい、そもそもそんな映画が上映中であること自体を知らなかった。

ただ、どうやらこの映画の評判が荒れているらしく、観に行った友人は「確かに原作の雰囲気は無いけれど、そういうミステリギャグホラーだと思って楽しめばいいのに、ここまで酷評されるのはモヤモヤするなあ…」と複雑な気持ちになったようだった。

こうなってくると、どんな映画なのかかなり気になってくる。私は以前に原作を観たことはあるし、それなりに楽しんだ記憶はあるものの、そこまで思い入れがあるわけでもない。そういう人間が観たらどんな気持ちになるんだろうと劇場に向かった。

あらすじ

ホラー系の動画を投稿するYouTuber風の男性である主人公は、知人が購入を予定していた中古物件の間取りを見て違和感を持つ。

間取りに隠されたミステリを建築士の知人と一緒に推理していくが、その中古物件の近くで遺体が見つかる。 主人公が狼狽えていると、そこに動画の視聴者から「他にも同じような物件を知っている」という連絡が届く。

主人公、建築士、そしてどうやらこの事件に深い関わりがある様子の視聴者が一緒になって調査を進める。 すると、ある因習村とその一家に辿り着く。

彼らは無事に事件を解決できるのかー

前半と後半

前半: 都会的なミステリ&ホラー

原作はウェブライターが主人公の安楽椅子探偵モノだが、今作の主人公は行動力に溢れていて、謎を解くヒントを探しに実際に現地へ赴いたり、偶然ではあるが「変な家」の近隣住民から話を聞いたりと、最近のYouTuberらしい振る舞いをする。

前半は都会を舞台とした「身近に潜む闇」「廃墟への潜入」などのホラー要素もギチギチに詰め込まれてはいるものの、2つの物件と事件がどのようにリンクするのか想像を膨らませるミステリ要素もちゃんとある。

原作のYouTube動画にある独特のテンポ感は今作には無いものの、私は「後半に向けて舞台は整った。ここからどう展開するんだろう?」と期待した。

後半: 絶対に笑ってはいけない因習村

なんと、物語中盤でとんでもない方向転換が発生する。先ほど述べた「この事件に深い関わりがある様子の視聴者」は呪われた一族の末裔で、事件の鍵は一族が住む山奥の村に隠されているというのだ。

つまり、前半は都会を舞台としたオシャレなミステリ&ホラーだが、後半は因習村モノへとガッツリ様変わりする。

この映画の魅力

原作を活かした丁寧なミステリーは、「実は因習村が全部悪いんです」と明かされることでほとんど解決してしまう。

だが、「えっ、じゃあ今までのは何だったの?」と観客が戸惑っている暇はない。

後半は、山奥の村を舞台として「因習村」「呪われた一家」「仮面をつけて火を持った人間が押し寄せてくる」「結局は人間が一番怖い」などのホラー要素がドタドタと大きな音を立てながら音速で眼前を駆け抜けていくからだ。

これがあまりにもドタバタなので、途中から大分面白くなってしまう。一つひとつの要素は和製ホラーあるあるだが、まさか観客は大量の定番要素による飽和攻撃を食らうとは思うまい。誰もミステリーのことなんて考えてる暇は無いし、なんならホラーどころではない。Amazon Primeでウォッチパーティーをしたらめちゃくちゃコメント欄が盛り上がりそうなホラー風コメディに仕上がっていて、本当に良かった。

例えば、ババアがチェンソーを振り回しながら向かってくる場面がある。この時点でかなり面白いのだが、なんとババアが振り回したチェンソーは建造物に刺さってしまう。ババアがめちゃくちゃ焦っているシーンで場面が転換する。私も健康には気をつけたい。加齢による衰えはまず足腰に来るからだ。

そして、この映画は「事件はまだ終わってないんだよね」的なオチで終わる。最後の最後まで、とにかく色々な要素を入れて盛り上げようとしてくれるサービス精神には頭が下がる。とりあえず、できることは全部やれば、熱意は必ず相手に伝わるということだ。ただ、その熱意自体がかなり面白くなってしまったのが本作品だ。

ドタバタホラー風コメディ

巷では、原作へのリスペクトの無さに加え、ストーリーの矛盾や登場人物の行動のおかしさについてかなり叩かれているようにみえる。確かに、ホラー映画でよくある「陽気なバカ」役の代わりに、この映画では全員が陰気でちょっとおバカな振る舞いをするので、粗探しをすればいくらでも気になるところは出てくるだろう。ただ、もう「実は全部因習村が悪くて〜」から始まるドタバタホラー風コメディにシフトした時点でそんな細かいことはどうでもよくなる。チェンソーマンも友情出演してくれたし。

なぜ評価が分かれたのか

ここからは、かなり邪推や憶測を多分に含んだ内容を書く。

この映画の監督は、フジテレビの大人気連続ドラマ「リーガルハイ」の監督も務めていたらしい。どうしてリーガルハイは大成功を収めたのに、変な家はここまで評価が割れているんだろうかと考えた。もちろん、原作とはかなり雰囲気がかけ離れた映画ではあるが、これまでも原作と全然違うのに好評を収めた映像作品は数多く存在するはずだ。

リーガルハイの場合

民放ドラマでは、スカッとジャパン的な要素を取り入れた方が伸びる傾向がある。

半沢直樹」は大きな組織の陰謀に巻き込まれた小市民の大逆転ストーリーだし、「不適切にもほどがある!」はコンプラに縛られた現代の世相を中年男性がぶった切る痛快ストーリーだし、基本的にスカッとさせればさせるほど嬉しいはずだ。

リーガルハイも同様に、風変わりな弁護士が一般常識や社会の不条理をぶっ叩く痛快コメディであり、「どんなにテンプレだろうがウケる要素をガッツリ入れてドーパミンをジャボジャボ沸かせる」という方針がしっかりハマったからこそヒットしたんだと思う。

因習村の場合

一方で、ミステリやホラーはテンプレ通りの展開が続くと観客が飽きてしまう。どんなにウケる要素を盛り込んでも「結局こんなオチになるんでしょ」となんとなく予想してしまうし、ウケる要素を入れれば入れるほどドタバタ感が増していく。

私はそのドタバタ感や「絶対に盛り上げるから観てて!」という少し過剰なサービス精神こそがこの映画の面白さだと思ったが、ホラーやミステリを最後まで期待し続けてしまうと確かに困惑してしまうかもしれない。

個人的におすすめの楽しみ方

まず、この映画を観る上で大事なのは「絶対に笑ってはいけない」という状況を作ることだ。映画館に行って、カップルに囲まれながら観る。せっかくこの映画を楽しみにやってきたカップルたちを興ざめさせてはいけないので、どんなにシュールでも絶対に茶化してはいけないのだ。「俺は絶対に笑わないで帰るんだ」という気持ちを強く持ってほしい。

その上で、前半ではなるべく映画に寄り添ってほしい。どんなに粗が目立っても、「でも演者がみんな頑張ってるし、もう少し見守ろう」という気持ちを強く持って、ミステリ要素が出てくる度にトム・ブラウンばりに「一体どうなっちゃうんだー!?」と大げさにリアクションを取ってほしい。

そうすれば、後は大丈夫。あらゆる謎が「それもこれも全部因習村が悪い!因習村、許さねえ!」というパワープレイで解決に向かい始め、村人がヤラセみたいな格好で押しかけてきたり、ババアがチェーンソーを振り回して自滅したりと、誰がどれだけ拒否権を発動しようとドタバタホラー要素が「絶対盛り上げるからな!」と大声を上げながら駆け寄ってくる。それを呆然と眺めていればあっという間に終わる。

まとめ

もしまだ観ていない人は、本当に面白いので是非観てほしい。ウォッチパーティーもみんなでやろう。因習村もみんなで行こう。絶対行こうね。

「察しの悪い雨穴」について

自分が服用している薬であるインチュニブには、「低血圧」と「うつ」という副作用があり、自分にもかなりしっかりその副作用が働いている。特に休日は一切動けずに一日が終わることも多く、今日も何もできなかった。

そんな時は、一切頭を使わずに笑える動画を観ることが多い。特に「察しの悪い雨穴」は元ネタである「変な家」を知っている人にかなりおすすめだから、一切動けずに一日が終わった人にはぜひ観てほしい。

「何が嫌いか」で自分を語ってほしい

「何が好きか」の無意味さ

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」というある漫画のセリフがあるが、自分は全く逆の考えで、私が相手の内面を理解したい時は「何が嫌いか」を引き出すようにしている。

自分が好きなもののに対する人間の視点というのはアテにならない。多くの場合は盲目的で冷静さに欠ける。特に、芸人やタレント、俳優やアイドル、声優、YouTuberやVTuberインフルエンサーなど、人間を対象とした場合のそれは酷いものだ。人間を前面に売り物にしたエンターテインメントは、演者もファンも摩耗させる。演者がファンから搾取しているようで、演者自身もファンによって消費されていく。すっかりすり減ったファンがひねり出した褒め言葉は、その人の内面ではなく、「いかに演者の内面をよく見せるか」という外面たっぷりの言葉になってしまう。

要するに、「何が好きか」を話す時、人間は自分が好きなものをよく見せようと外面造りに必死になってしまうのだ。

脱線: 人間性を販売するエンターテインメント

少し話を脱線させるが、自分がなぜ「人間性を販売するエンターテインメント」をここまで嫌っているのか、自分に対する自分自身の理解を示しておく。

自分は特にコントが好きで、芸人が劇場で披露したネタを自分自身で公式YouTubeチャンネルにアップロードする時代において、私はその恩恵をふんだんに享受している。しかし、近年はメディアでもSNSでも、芸の裏にある芸人の人間性にスポットライトを当てるような演出が多い。

演者がどんなにエゴサしようが、それが芸に対する投稿であればポジティブだろうがネガティブだろうが受け取りようがあるかもしれない。だが、演者自身の人間性やルックス、生い立ちや家族に対する言葉であれば、ポジティブだろうがネガティブだろうが演者自身の生き方に強く干渉することとなってしまう。それはファンにも近いことが言えて、自分が好きな人間そのものに対する発言には賛美だろうが攻撃だろうが敏感になるものである。人間の「好き」という感情をハックし、提供者も消費者もSNS過敏症にするエンターテインメントは、本当にここまで広く社会に浸透するべきだっただろうか。

「何が嫌いか」もしくは「何を不条理と思うか」

さて、話を戻す。これも個人的な意見ではあるが、その人の内面というのは「何が好きか」ではなく「何が嫌いか」「何が憎いか」に現れると思う。あるソフトウェアエンジニアが 怒り駆動開発 という言葉を提唱していたが、「何を不条理とみなすのか」「その不条理とどうやって折り合いをつけるか」はその人の信条が反映される。例えば、私は「人間性を販売するエンターテインメント」を不条理とみなすし、コントは見てもその演者の人間性を理解することから逃避することでごまかしている。不条理に直面した時、立ち向かうのか、やり過ごすのか、うまくいなすのか。「どれだけ外面造りがうまいか」よりも、私はそういう内面の方に興味がある。

ロールキャベツはもうコリゴリだァ

手順化された自炊という作業

自分は、毎週日曜日に一週間分の調理を一度に完了させる。

食材を適切な形や大きさにカットし、調味料で味付けし、適切な手段で加熱するというプロセスは、なるべく並行して実行した方が楽だからだ。

一人暮らしで消費できる量には限りがあるため、購入する食材もある程度限定される。どの食材もある程度はカットや味付けの手段は確立されているから、先にそれを済ませてしまえば、後はそれぞれをどう組み合わせるかを考えるだけで自然と調理が完了する。

自分はとにかく「手順化」が好きだ。どんな高度で有機的に見える仕事も、きちんと目的を明確にして、それを達成する手段を列挙し、それぞれのメリットとデメリットを明確にすれば、100点とはいかずとも60点ぐらいは取れる。それがプログラミングだろうが、プロダクトマネジメントだろうが、洗濯だろうが掃除だろうが「手順」に分解してしまえばよい。自炊もその対象だ。

「魔が差す」ということ

さて、このような考え方で自炊をする人間は、当然ながら面倒なレシピに挑戦することはほとんどない。少ないコストでそれなりに満足できる食事ができればそれでよいのだから、わざわざ自分の「手順」から外れた失敗確率が高いレシピに挑戦する必要がないのだ。

しかし、何を血迷ったかその日は「ロールキャベツを作ろう」と思ってしまった。

ところで、皆さんは登山時の悲惨な事故をニュースで目にしたことはあるだろうか。どんな熟練の登山家も、ふとしたきっかけで思わぬ遭難事故に巻き込まれ、しばしば死亡してしまう。山の世界では「魔が差す」としか言いようがない事故がしばしば起きるのだ。ましてや、登山の初心者であれば「魔が差」した時のリスクは計り知れないであろう。

山の世界では「魔が差す」としか言いようがない初歩的な事故が起こることが珍しくない。

【スポーツ異聞】女性登山家・谷口けいさんの滑落死から何を学ぶのか? 山のトイレ事情と「用足し」論(2/3ページ) - 産経ニュース より

ロールキャベツと「魔が差す」

崇高な高みにある登山家たちを引き合いに出すのはあまりにも恐れ多いが、自炊経験の浅い自分もまた「魔が差」してしまった。ロールキャベツは「キャベツをカットせずに下茹でする」「味付け済みひき肉をキャベツで包む」「ひき肉を包んだキャベツをきれいに敷き詰めて数時間煮込む」という非常に手間のかかる工程によって完成する料理であり、誰がどう考えても「手順化された自炊という作業」とは程遠いものである。しかし、「なんとかなるだろう」と高をくくった自分は、間もなく痛い目に合うこととなった。

(賢明なら) 予想できた結果

小さすぎるキャベツの葉

さて、いつも通りキャベツを四等分にカットしてから調理を始めた自分は、まず「キャベツをカットせずに下茹でする」という最初のステップでつまずくことになる。とりあえず下茹でして柔らかくしたキャベツでひき肉を包もうとするものの、どの葉っぱもあまりにも小さすぎて到底包みきれるものではなかった。

「カットと加熱を並列する」という前提の崩壊

仕方ないので、一つの肉だね(味付け後のひき肉を丸めたもの)を複数の葉っぱで多重に包み、無理やり敷き詰めて煮詰め始めた。しかし、最初からレシピをすべて確認せずに進めてしまった自分は、「2時間煮込む」と書かれたレシピを見て閉口してしまった。この家にはIHコンロが一つしかないので、ロールキャベツを作っている間は他の料理を作るのが難しくなる。

不可逆的に破壊された"ロールキャベツ"

とりあえずほうれん草やニンジンをカットし、レンジ加熱で完成するレシピを調べながら煮込み終わるのを待った。 するとどうだろう、たった30分でキャベツは瓦解し、一部は肉汁が漏出してしまった。

こうなったらもう、どうしょうもない。ロールキャベツは解体し、肉だねとキャベツをほぐしてカレーに入れることにした。

まとめ

タイトルでは「ロールキャベツはもうコリゴリだァ」と述べているが、自分はロールキャベツそのものに懲りるのではなく、手癖でキャベツを4等分したり、無計画に思いつきのレシピを採用したりする行為に懲りるべきだ。

今後は以下に示す反省を踏まえ、計画的にロールキャベツを量産できる体制を整えようと思う。

食材のカットや加熱は不可逆である

実行前に目的のレシピを確認し、そのカットや加熱が本当に必要な行為か考えるべき

コンロを長時間専有するレシピは最後に

カットと加熱を並行して実施するなら、コンロをあまり専有しないレシピを採用すべき

これが終わったら独りで静かに山で暮らす

「この仕事をやりきったら、会社もエンジニアも辞めて、誰も居ない山にプレハブを建てて独りで静かに暮らすんだ」って常に思いながら働き続けている。

エンジニアになったきっかけ

父親や叔父が技術者という家系に生まれた自分は、小さい頃からなんとなく「自分もエンジニアになるんだろう」と思い込んで生きてきた。 また、小学一年生の頃には「自分は人と関わるのが苦手だ」と気付き、「エンジニアになれば、人間と関わらずに黙々と仕事をこなすことで生きていける」という噂を信じていたのも、エンジニアになった理由の一つだと思う。

エンジニアの現実と責務

だが、就職してみるとエンジニアという職業は人と関わることがとても多い。というか、チームで一つの何かを作る仕事であれば、どんな職業だろうが当たり前に人と関わることになる。

「本当に今作るべきものは何か」「それをどうやって作るのか」を常に考えながら働く必要があるので、チーム内外の人間との対話が非常に重要になる。

つまり、本質的に求められているものは何であるかを追求し、それが分かれば要求を満たすシステムを開発してリリースすることこそがエンジニアの責務であると考えていた。

だが、人間と関われば関わるほど、どんどん人間が嫌いになっていく。当然ながらそれぞれの人間が本質だと思っていることは違うし、そもそも本質に関心があるとも限らないから、まず本質に対する認識を合わせるために対話が必要である。

しかし、誰しもが対話にオープンとは限らない。上で示した「エンジニアの責務」を全うしようとすればするほど、それぞれの人間の感情の機微を深く理解し、対話相手の心を切り開かなければならない。

でも、「人間との関わりを持たずに生きていける」と希望を見出してこの仕事に就いたのに、何でこんなことになっちゃったんだろう。

解決

結局、人間が存在する場所で暮らす限り人間との関わりを断つことはできない。 だから、この仕事をちゃんとやりきったら、誰も居ない山にプレハブを建てて、独りで静かに暮らしたい。

刹那的なものと距離を取る

時代に流されないデザインでお馴染みのイッタラが、「アバンギャルド」を標榜するラグジュアリーブランドへ急転換してしまった。

そのうちマルジェラなんかともコラボしたりするんだろうか。自然からインスピレーションを受けていたイッタラは、これからは自然ではなく他のブランドからアイデアを得ることにしたようでパクリ騒動もあったりと話題に事欠かない。

ラグジュアリーブランドは「そのクールな商品を持ったところで、お前の人生は何も好転しない」ということに気付けない人をターゲットにして、コレステロール値がカンストするほど脂ぎった私腹を肥やしている。そんなふざけた商売なんてやめて、今すぐ"ラグジュアリー"になった横腹の脂肪を取り除いて、タイムレスな健康体に生まれ変わるべきだと思う。

つまり、自分はとにかく「ラグジュアリーがどんどん魅力的な商品を生み出して、そんな魅力的なものを一つでも買い揃えたい」というような刹那的な消費からは距離を取りたい。「ガンガン稼いでドンドン欲しい物を買う」という人たちの気持ちがわからない。本当に欲しいと思えるようなものは、そんなにたくさんあるんだろうか?仕事道具といくつかの好きな服、食器、休むための椅子、長持ちする下着さえあれば、残りのほとんどのものは必要ないと思う。

そして、「刹那的な消費」はラグジュアリーブランド以外にも溢れている。ギャンブルや夜の街のような刹那的な快楽を満たすためのもの、セックスをするぐらいしか楽しみの無さそうな浅い交際、こういったものへ依存している人間や文化圏は他人や自分自身すらも消費する。

そういうものや人に流されず、一人で海や滝や山肌を眺めながら何にも邪魔されずじっといていたい。